70年代に福岡を中心に活動していたサンハウス解散後、ギタリストだった鮎川誠とシーナとで結成。1978年シングル『涙のハイウェイ』で、デビュー。その当時飛ぶ鳥を落とす勢いとハイセンスなイメージが強いアルファレコードに移籍しYMOのバックアップで『真空パック』を発表。 日本でも有数の海外のロックミュージシャンと渡り合う活動を早くから実現して、35年経過した今なお無類の音を奏でるレジェンドロックバンド。 (CLUB Que 二位徳裕)
二位:それでは早速ですが、5月1・2日よろしくお願いします。何かとてつもなく貴重な2日間になる予感がしてます。
鮎川:よろしくね。久し振りやし、もりあがりそうやね。
シーナ:うん。楽しみよ。
【シーナ&ロケッツ&ハーレーダビッドソン】
鮎川:これ、二位君に見せてないよね。これ、フジスピードウェイの。
二位:あれ? これ「ブルースカイへブン」…フジスピードウェイのハーレーのイベントですね。出るんですか?
鮎川:うん。ちょうどハーレーが100周年でね。アメリカ110年、日本上陸が100年記念。
二位:わあ、そうなんですか。
鮎川:ハーレーダビッドソンの創立者のお孫さんやら、一族がみんな来るらしいの。
二位:ほんとですか。うわー、それに出るんですか! なんか凄いタイミングですね。
鮎川:うん、光栄なことでハーレーと縁がある。前にハーレーでジャケットも撮ったりね。そういう縁も助けてくれて、ロケッツを選んでくれたんよ。良かった。
二位:重なりますねぇ。これは面白いですね。
鮎川:やけん、今度やるCLUB Queの店長の二位さんもハーレーの愛好者で、なんか偶然やけど、取材もはかろうてくれてって。
二位:僕、もう意を決して俺のバイクにまたがって写真撮らせてくださいって(笑) でもそれだけじゃ失礼だから『VIBES』ってハーレー雑誌の編集長が博多の人でロケッツをめっちゃ好きなんで、何か記事載せてもらえないだろうかって頼んだんですよ。
鮎川:ねぇ。ありがたいよね。
二位:編集長は前も観に来てたんですよ。
シーナ:そうらしいね。
二位:で、シーナさんがステージ上げちゃって(笑)。
鮎川:みんなステージ上がったことあったよね。THE NEATBEATSやら。
シーナ:あったあった。
二位:みんなワーッと上がった中に実は編集長がいて。今回、何か記事出来ませんかって言うたら、喜んで!って言って。そんな展開でしたね。そしてこの5/25のブルースカイへブン。
鮎川:うん、これはバタバタ決まった話で。
二位:じゃあ、5月1日、2日が決まった後に決まったんですか?
鮎川:そう、昨日決まったんよ。
二位:えー、感動しますね。意味が繋がる。
鮎川:そういうこと。
二位:そういえば俺、東京に19歳の時上京してきて来て、下北に降りて駅の改札出た所で、(鮎川さんに)すれ違ったんです。
鮎川:あぁそうね!
シーナ:へぇほんと。どれくらい前?
二位:え!? えー、27~8年前ですか。
シーナ:あー、そしたらあの、イサミヤによう行きよった頃やない?
鮎川:そうやね。
二位:イサミヤは下北の駅近くの、いまABCマートかな、あそこにあった電気屋ですよね。
シーナ:そう、もう好きで好きで、店員になったら?って、言いよったんよ。(一同笑)
鮎川:もうイサミヤのどこに何が置いてあるか、全部知っとった。あの頃、家電とかいるやつは全部イサミヤやった。
【シーナ&ロケッツの音楽的ルーツ】
鮎川:そういえばね、俺達も初めて東京に出て来て、吉祥寺の駅で、高田渡に人混みの中ですれ違うて「は、高田渡!」ちゅうて。パッと振り返ったら、向こうも振り返ってさ。話が出来たのが嬉しくてさ。ちゅうか、高田渡が俺達んことを知っとってくれたっちゅうのがもう。サンハウスで何回か対バンはやったことはあったけど。
二位:高田渡さんは、あれ? 年齢、鮎川さんより上でしたっけ?
シーナ:ううん、一緒よ。
鮎川:あの人は遅生まれで、俺のほうが一年弱兄ちゃんやけど、学年は同級なんよ。
二位:そうなんですか! 渡さんが有名になるのが、ちょっと早かったってことですか。
鮎川:全然早かったよ。
シーナ:もう、大好きだったし。
鮎川:俺達が英語のブルースしよった頃、高田渡を聴いて、日本語もいいねて言うて、曲作りが日本語の歌詞になった。最初の先生やね。
二位:高田渡さんからなんですか?
鮎川:うん。日本語で演るブルース、カッコいいちゅうて。バナナのジャケ※ のアルバムが出てさ、あれ聴いて。ブルースで。ウディ・ガスリーの曲とかを「銭がなけりゃ」ってやって、高田渡いいなぁちゅうて。他のメンバーはあんまり、フォークは嫌いって言いよったけど。でも高田渡はすごい。それとシバ。勿論はっぴいえんども。日本語でやりよるお手本は色々おったけど。高田渡が直接のきっかけ。
※高田渡のアルバム『ごあいさつ』。細野晴臣、鈴木茂、松本隆が参加。
二位:そのフォークとロックの垣根とか英語と日本語の切り替わる感覚って、僕らより年下はまったく分からないと思うんですが。そのきっかけ、切り開いた人達の話をどう残すかっていうのも、僕らの仕事なんですよね。
鮎川:そうやね。高田渡、加川良、泉谷しげる、井上陽水…。 ああ、福岡での最初の大きなイベントでロックとフォーク大結集みたいな、あったね。
シーナ:そう、能古島でやったね。(博多湾にある島)
二位:それいつですか?
鮎川:最初は71年。九電体育館でやけどね。
シーナ:まだ私が十代の頃よ。
鮎川:その頃、俺達は箱バンで毎晩、6~7ステージやる箱バンしよってさ。
二位:今みたいなライブハウスって無いですもんね。
鮎川:無い無い。PAさえも無い時代。
シーナ:ロック喫茶。
鮎川:「グレイトフルデッドが凄いの(PA)を作ったぜ」とか噂を聞くだけで。ヴォーカルでもみんなアンプを持ってなきゃいかん。俺の誰か触ったやろ! とか言いながら。
二位:だからか、その頃からやってる人はリズムが良いとか。
鮎川:リズム走ったとかさ、うるさかったいね。お陰で俺はいつも言うんやけど「走るのは良いことだ」って。感情と直結した演奏が一番良いちゅうのは、小うるさい先輩がいっぱいおったんよ。それの反発やね。
二位:鮎川さん達にもうるさい先輩いたんですか?
鮎川:そうそう。
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二位:鮎川さんが最初に楽器を手にするきっかけは? ギターの前に何かやってたりしましたか?
鮎川:小学校5年の時、ガットギターを買うたんよ。リトル・リチャードを中学になって聴いて、レイ・チャールズを聴いて、こう音を探して弾くぐらいしよったけど、もうすぐほったらかして置いとったんよ。それで中学の終わりにビートルズが出たんよね。高校に入ったらみんな「お前、ビートルズ知っとっか?」ちゅうて。知っとったら友達になるんよ。知らんちゅうたら「お前、勉強ばっかして。ビートルズも知らんで…」って。で、ビートルズがみんなに行き渡ったら、もう面白ないけ、ストーンズやキンクスやアニマルズやWHOやら、バンバン出て来たけん。そういう仲間と聴きよった。最初、ベンチャーズがブームになったよね。金持ちの子とかはギターやアンプが家にあって、バーン!と弾きよった。そういう所を巡ったりしよったけど、学校に誰かギター持って来ると、みんな並んで「次、俺に弾かせろ」ちゅうて。そうしよったら欲しゅうなったけど、金は無いけ、修学旅行で学校で貯めとるお金を狙うたわけ。
二位:はいはい(笑)。自分も記憶が有ります(笑)。
鮎川:みんなで並んで「先生、修学旅行はどこに行っても面白ないけ。行かんけ、お金を戻して」ちゅうてから、積み立てとった3万ぐらい戻って。もうそれしか自由になるお金の方法がなかった。バイトとか無いしね。二位くんの佐賀でもそうやろうけど、久留米でも高校生がバイトなんて考えられん時代やった。
二位:僕らは、、まだちょっとはありましたね。時給360円とかですけど、肉屋のバイトしよりましたよ。
鮎川:そうね。で、初めてのギターは友達が4500円で売るちゅうけ、それ手に入れて。薄くて弾きやすくて。もうガットギターは…でもあれで練習しとったお陰で、こんな弾きやすいんかって思うて。
二位:エレキギターになったらですね。
鮎川:それから、ストーンズやら自分で聴いとったのを、全部自分の手に置き換えることができてさ。久留米で俺はちょっと有名になったんよ。「マコちゃんに聞くと何でも知っとるぜ」って話になって。「LADY JANE」弾きたいとか「Heart Of Stone」弾きたいけど、コード分かる?ちゅうて。
二位:その頃は、譜面も何も無いですよね?
鮎川:全くちゅうわけやないけど、無かったね。けど音を探してコードをとるのは割とようしよった。
二位:僕らの頃から少し便利なものが出てくるんですけどね。バンドスコアみたいなのが。
鮎川:でも俺、インタビューでよう言うけどさ。その頃でもビートルズはあったんよ。すぐ楽譜が出たんよ。
シーナ:レコード屋さんにあったね。
鮎川:「Michelle」※ とか難しいコードでも(指を動かしながら)そうやって覚えた記憶がある。見て弾くとそこで終わりなんよ。ストーンズやら、こうやってレコードに針乗せながら、ずっと弾いていくと、どんどんバリエーションが出てくるんよ。「あ、こうやったから次がこう行くのか」とか。手で覚える。目と情報で覚えると身につかんちゅうことが分かってさ。よう言うのは、譜面やらで覚えたら、それから先もそれに頼るし、分かっとった風でもすぐ忘れるって。
二位:そういう話、先輩達に凄く言われましたよ。もしかしたらグルッと周って僕らに伝わってきたんですね(笑)。久留米と佐賀、ちょうど川挟んで、近いじゃないですか。自転車でなんとか頑張れば行けるぐらい。10年後に僕らに届いた…。
シーナ:うん、近いよね。
二位:久留米はうちらから比べたら、かなり都会ですけど。
鮎川:地図で見たら、ほんと筑後川のデルタ地帯の北側が佐賀で、南側が久留米・柳川。
シーナ:でも、佐賀は県庁があるし、お城もあるし。いいやない。
二位:お城の跡はありますけど、なんも無いですよ(笑)。
鮎川:筑後デルタ構想ちゅうのがあってさ。ミシシッピ・デルタあるし、ウィルコ・ジョンソン達はテムズ・デルタって言いよるの。そやけん、久留米は筑後デルタちゅう、デルタ地帯のブルースをね。結集して面白いことしたいね。
二位:ああ、いいですねぇ。――鮎川さん達はもうずっと東京ですが、まだ九州に実家があったりします?
シーナ:北九州に実家があるよ。家もあるし。年に一回は帰るよ。
鮎川:久留米は何も残ってないけど、学校の友達とかが多いけん。今は久留米の久留米医大ちゅうのは、日本で一番凄いんやて。去年も母校の九大(九州大学)で呼んでもろたしね。九大が去年100年で「九大百年祭」ちゅうのがあって。
二位:なんか…そういうところが普通のロックバンドには無い、何かがありますね。
鮎川:あるかもね。ありがたいよね。
【シーナ&ロケッツのゲストプレイヤー】
鮎川:こないだ別件で、青山CAYのBLUE BEAT BOP!の山名昇のパーティに行って、そこ出てたCOOL WISE MANがエラい良くてさ。聴き惚れとってさ。終わって話よったらサックスの西内君ちゅう、(後で人から聞いたら)スカ界のサックス奏者の第一人者で、偉い人やけん。話よったら、札幌のライブの日がちょうど「自分もいる」ちゅうて。「札幌のロケッツに飛び入りして」ちゅうてから盛り上がっとったら、次の日に凄く律儀にメールが来て「CLUB Queにもぜひ、飛び入りさせてくれ」って。
二位:あ、来るんですか?
鮎川:5月2日に「ぜひ、来たい」言うて。じゃあもう「頼む」て。
二位:ゴージャズですねぇ。
鮎川:そしたらすぐ、ツイッターやらfacebookに書いたら、みんな喜んでくれたメッセージがバァーっと入ってさ。こっちも急いで写真付きで載せて。西内徹は北海道の人で、サックスの音色が良くてね。
二位:たまたま観に行ってたんですか?
シーナ:そう、観に行っとって。
鮎川:山名とブルースヴィル渋谷のメンツがまた揃うけん、ちょっとお祝いに行って。COOL WISE MANはたまたま観た。
シーナ:演るのを知らなくて。凄く良かったから、前のほうで踊って汗びっしょりかいてさ。カウンターの所いたら「一杯奢らせてください」って言われて、えー!って。それから始まったの(笑)。「凄い良かったわよー!」って。
二位:この日(5/1~5/2)、色んなミュージシャンが参加したいんじゃないですか? 多分、来ていいよって言ったら大変なことになりますよ(笑)。あの前の3daysの時も(2009年9/29~10/1)、もう凄かったですもんね。
鮎川:良かったよね、あれ。怒髪天やらが大活躍して。
二位:怒髪天やウルフルケイスケや甲本ヒロトさんら。俺的には俺が…(笑)。
シーナ:あんた演ったね。「ビールスカプセル」をね。
二位:はい。演らせてもらいました。もう嬉しくて(笑)。
シーナ:また演る?
二位:えっ! いやいや(笑)、もう心臓飛び出ますけど。あれ、2日目の打ち上げの時に「明日のゲストがおらんな。ギター持ってきんしゃい」って言われて。ギター持って来るのはいいけど、どういうこと?って(笑)。きょろきょろしてました。
シーナ:あん時、ヒロトも出たよね。
二位:楽しそうでしたね。打ち上げも最後まで残ってくれてて…。
シーナ:楽しかったもん。
二位:ほんとにいつも貴重な思い出になる出来事有難うございます。さあ、それでは申し訳ないですけど、下北沢の街へ繰り出したいと思いますがいかがでしょう。
鮎川:ああそうやね。
二位:――トロワ・シャンブル(下北沢の喫茶店)は何か思い出ありますか?
鮎川:トロワ・シャンブルはコーヒー好きな僕達の憩いの場。
シーナ:バンドとかで打ち合わせしたり、取材をしたり、待ち合わせとか。もうそれこそ35年。
鮎川:うん、下北に住みついた時からある。変わらん店ってアンゼリカとトロワ・シャンブル。
シーナ:パン屋さんのアンゼリカとトロワ・シャンブル、パントンの革屋さんとか。
二位:あれ、そんなに旧いんですか。
シーナ:旧いよぉ。
鮎川:トロワ・シャンブルはずっと変わらんとよね。
二位:僕もよく行きますよ。打ち合わせとかで。落ち着きますもん。
シーナ:うん、いいよね。昔から変わってないよね。
二位:そういえば餃子の王将って、あそこお風呂屋さんでしたよね?
シーナ:そうそう。
鮎川:そうやったね。
鮎川:どこ?ここ?あ~三福林あったね。
二位:三福林、あ~あの油ギッシュな定食が食べたい!
鮎川:ねえ。よく行きよったよ。
二位:ラカーニャは残念ながら開いてないですね。
シーナ:ここはね、あれよ。
鮎川:最初、RAYS BOOGIEちゅう店ね。レイ・チャールズのレイズ・ブギー。
二位:僕が東京にきた86年から暫くまではRAYS BOOGIEでしたね。
鮎川:うん、もう東京じゅうのミュージシャンがみんな集まりよったんよ。それこそサザンの桑田君も。いろんなブルースマンが集まりよった。
二位:TOMATOSの(松竹谷)清さんも若い頃働いてましたね。
シーナ:ああ、ほんと。彼も住んでたからね。
鮎川:うんうん。オーナーの岩下さんと知り合いになったことが、俺達も凄く嬉しくて。顔を覚えてくれたりが。それからラカーニャに変って、ここで加川良さんと再会したり、中川五郎とか。それこそ高田渡さんとかも黎明期からのフォークの重鎮がみんなここで演るようになったね。
二位:凄い歴史の話です。感慨深いです。しばらく居たいですが先は長いですから、次行ってみましょう。えーっと、次はLADY JANEですね。
~マネージャーが歩きながら道行く人にフライヤーを配る~
二位:歩くのも宣伝になりますね。
鮎川:うん。下北やらで配るのもありやねっ。
シーナ:ああ、そうだよね。
鮎川:新宿も人が一杯おって派手やけどさ。下北は手にとれるね。あ、ジャックポットあるね(ダイニングバー)。
二位:――材木屋もありましたよね、この辺に。
シーナ:そうそう。
鮎川:前のベースの浅田(孟)がね、ここに住んどった。
二位:浅田さん、この辺だったんですか。
鮎川:このマンションが出来た時、ここに引っ越した。
シーナ:イタトマでクリスマスケーキ食べたね。
鮎川:最初のクリスマスはイタトマやったね、シーナ&ロケッツのみんなで。
シーナ::そう、あそこのショートケーキ、苺の。それがクリスマスだったもんね。この周り何もなかったよ。
二位:このイタトマの辺ですか?
シーナ:うん、ここにぽつーんとイタトマが出来たんよ。あそこに革屋さんと酒屋さんがあったけどさ、画材屋さんがこっちにあったり、それくらいで他は何にもなかったもん。
二位:下北のLOFTでは演ったことありますか?
シーナ:あるよ。
鮎川:自分達の最初のメンバーが揃った時に、フリクションと対バンで演ったんよ。
二位:そうなんですか! うわーお。僕が下北に住み出した時に下北のライブハウスはLOFTしか無かったんですよ。
シーナ:そうね。多分、そうだと思うよ。
二位:まさかこんなにライブハウスが増えるとは。劇場はあっても、ライブやるとこはなかなか無かったですからね。
シーナ:芝居のね、スズナリとかはあったけどね。
二位:よく劇団員の人とバンドマンがケンカしてました(笑)。
シーナ:劇団の人達はよう酒飲むから。
二位:あれ、LADY JANEも閉まってますね(笑)
鮎川:写真に看板が入ったらいいね。1975年からやからね。
FLASH DISC LANCH/椿:あら! お久し振りです。ライブどこですか?
鮎川:CLUB Queで5月、俺の誕生日。65歳よ(笑)
椿:すごいですね、ちょっと見習わないと。これちょっと下に貼っておきましょう。
鮎川:うん、ありがとう、応援してください。
シーナ:ありがとう、ありがとう。
鮎川:椿さんおるかなと思って。もしか山名昇が来てるかなーて。
椿:まだラジオはやってらっしゃるんですか?
鮎川:渋谷FMが潰れた。途中やる気あったのに、ラジオ局の方が先に無くなって。12年やったけど。
椿:へ~、そんなにやってたんですか?
鮎川:またゆっくりね。今日はCLUB Queの取材で俺たちが下北の好きな店を回っとるんよ。
椿:チラシ階段に並べて貼っておきます、並べて貼ればインパクトあるので。
鮎川:なかなかご無沙汰していてねえ。
椿:いえいえ。
鮎川:どうもよろしく。じゃあ行こうか。
二位:夕方になると人ごみが増えてきましたね。
鮎川:ここがさっき言うたイサミヤで…。STOMPは? STOMPは変わらず? ちょっとSTOMP撮っといてくれんかね?
二位:このスタ丼のところに、餃子の王将ありましたね。そのあとスターバックスだったかな。
シーナ:この本多劇場のビルの中もね(マルシェ下北沢)、いろいろ多くてさ、安い化粧品屋とかあって。
二位:いよいよ下北沢駅です。
鮎川:あ、雨が降ってきた。
シーナ::月が出てるよ。
鮎川:電車のあれかかな?
鮎川:もう変るんやね。ちょっと寂しかけどね。
二位:変りますよね。
二位:ここの八百屋さん頑張ってる、ここにビリヤード屋さんがあって…。
シーナ:あったね。いろいろとね。
鮎川:オオゼキすごいやん。
二位:この踏切でちょっと撮ってもいいですか?
二位:タウンホールが出来る前って何だか記憶あります?
鮎川:タウンホールの前は…ん~、知らんね。なんか遊園地みたいなのはあったけど…。
二位:え?遊園地あったんですか?
鮎川:遊園地というか公園のね。だいたい急に空き地になってしまうやない。したらもう思い出せんやろ。 あ?ここに何あったっけ?ってね(笑)
鮎川:ここ撮ってもらおうよトラブルピーチ。ここで取材も何回しただろう。
二位:こういう風情がある旧い建物って、ある意味その後壊すから、道路作るから新しく立て替えられなくてそれで残っているっていう…。
【かつ良店内】
二位:ここ「かつ良」は僕が人生で二回目に鮎川さんに遭遇した場所です。
鮎川:あっ、そうやったん?
シーナ:ここで見かけたの?
二位:そう。ここで見かけたんです。僕が下北来てすぐバイト先の店長に連れてってきてもらって「うまいだろ?」って食わしてもらったんですけど、それどころじゃなくて(笑)。あれっ!シーナさんと鮎川さんがって大騒ぎですよ。ところで「かつ良」のマスターとは知り合いなんですか?
シーナ:マスターは博多出身なのよ。大堀高校よ。
鮎川:後で話をして分かったんやけどね。もう、最初はとんかつがうまいで。
シーナ:おいしくて、よく来てたら、マスターにいつもきびなごの唐揚げだとか、さつま揚げだとかご馳走になってね。
鮎川:すごく優しくしてくれてね。
二位:美味しいわりにあまり高いわけでもないですしね。ご飯なんかおかわり自由じゃないですか。
鮎川:そんでね、皆でゆっくり入れる店と言うたらそんなに下北にはない。二人で飲んだり、仲間でワイワイはあるけど。ゆっくり食事ができるこういうスペースやったから。かつ良に行こうってのがようあったね。
シーナ:そう、韓国の人も連れてきたこともあるよね。韓国のバンド。シナウィってバンドがあって。
鮎川:そうよ、Queでやった時よ。
二位:あっ、そうですか!
鮎川;韓国のほんと第一人者のハードロック、シナウィ(SINAWE)っていうグループのシン・デチョルっていう凄いギターリストが来て、ちょうどQueで演ったから。
シーナ:彼はもう今は名プロデューサーね。
鮎川:俺のパソコンの中にデータがあるけん調べりゃ分かるけど、1998年くらいのことやったと思う。シーナが韓国に行って友達になって。
二位:へ~。
鮎川:みんな集まってくれて、凄いパーティーを開いてくれてね。それで彼ら街も案内してくれて。まだ日本語が駄目な頃やもんね。
二位:ですよねー。ロックもあまりよろしくない頃じゃないですか?
鮎川:うん、駄目駄目。あの頃は厳しかったやろう。
シーナ:それなのに、スタジオでガンガンにシナロケをかけてくれて。ファッションデザイナーの人たちとかも集まってきてね。それで、一回大きいライブをやろうとしたんよ、韓国で。むこうの大学とかと一緒になってね。
二位:駄目って言われると余計に盛り上がりますよね。
鮎川:その時はただ、ショッピングで行ったんやけどね、一応ね。
シーナ:友達とね。
二位:そしたら、ワーっと集まってそうなったんですか。
シーナ:そうそうそう。
二位:その頃から、日本のロックに興味を持っている韓国の人はいっぱいいたんですね。
シーナ:そうねー。
鮎川:1人あの~、「ジャパンタイムズ」におったね、日本のロックをすごく好きなフレッドっていう、イギリス人と友達になったら、その恋人が韓国の人やったんよ。
シーナ:そう、スタイリストでね。
鮎川:もう結婚したけど。ミジョンって言う。そのミジョンがソウルのコネクションを色々と紹介してくれて。シーナが来るからっちゅうことで待っとってくれたみたいでさ。
二位:今でこそ文化交流もありますけど、当時だと凄い希少な出来事だったんでしょうね。それは凄いな~。
二位:ちょっと話が変わりますけど、新井田さんが最初ドラムだったんですね。
鮎川:うん。そうそう、新井田くん。
二位:それはRCサクセションをやる前なんですよね? 鮎川:そう、RCをやる前。「ミスタースリムカンパニー」っちゅう東京の生バンドでミュージカルやる団体っちゅうね。
そこのドラムやったんよ。あの頃、ロッキーホラーショウっていうのがロンドンにあって、そういうロックミュージカルが東京でも興りよったね。それで、二人でレコーディングを始めた時に、サンハウスのマネージャーをしていた柏木省三っていうのが、そのミスタースリムカンパニーやら、ゴダイゴとか中村雅俊が所属したプロダクションにおってね、彼の紹介でドラムを新井田くんに頼んだんよ。新井田くんとベースと、サイドギターの阿部ちゃんていうのを。 みんなスリムカンパニーの仲間やね。
二位:それで最初始まって。
シーナ:そうそう。で、ステージもしたんよ。新宿ロフトでライブもやって。そのままレコーディングも。それから曲を新人の歌手に書いたりいろいろしとった時のレコーディングとかに、ゴダイゴのメンバーとか新井田くんとかに手伝ってもらってレコーディングしたのよ。
二位:うわ~。
鮎川:新井田くんとは未だにに何かあったらいいね。なかなかやるチャンスは無いけど。
二位:いや~、でもそれが出来たら凄いですね。僕らにとっては夢の共演ですね。
シーナ:うん。すごい気が合うんよ。新井田くんと。晦日の日に、高田渡を一緒に見に行ったよね。
鮎川:うん、あとローリングストーンズも見に行って。
二位:そんなに仲がいいんですか。
シーナ:時々会ったらね、ずーっと一緒にいるの。何か落ち着くから、お互いに。
鮎川:93年の二回目のストーンズが来た時、迎え撃つ為に、ハートオブストーンズって言う名前のリミテッドバンドを作った時に新井田くんはまたドラムで演ってくれたんよ。
二位:あっ、ハートオブストーンズは新井田さんがドラムだったんですね。
鮎川:そうそう。オールストーンズのレパートリーにしとって。その時は新井田くん。
シーナ:新井田くんに奈良くんがべースで。キーボードも入れてね。
鮎川:それが自慢よ。RCですごくいいドラムで有名になったし。俺達も新井田とやってたぜって。
二位:すごい、面白い話ですね~。
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鮎川:RCのマネジャーが久留米のやつでさ、坂田ちゅうてね。
二位:坂田さん、最後はうちのUKPの人になったんです。ロストインタイムのマネージャーで。
鮎川:そうやね。坂田がRCのマネージャーだったから、RCともなんだかんだで一緒に演って。ロケッツ作った頃からもうすでに交流があってね。
二位:坂田さん亡くなったのが地震の時ですもんね。びっくりしました。お葬式行って、お坊さんがお経を読み始めた時にまた地震が起こってゆれて大変で。町田でやったんですけど、電車も動いてない、ガソリンも無いでどうやって行くんだって。でも、人柄でしょうね、たくさん集まってました。
シーナ:あの時、東京に居なかったのよ、私達。福岡に行ってた。
二位:そうだったんですか。
シーナ:うちらね。テレビの仕事入っとったんよ。けどそれで無理やり帰ってきたんよ。
鮎川:テレビはね、その日は新幹線が鹿児島まで開通するする日で、本当はね。
二位:あ~、そうでしたね。
シーナ:それで生放送で出る予定やったんよ。
鮎川:そのテレビ出演の為に前日に行っとったんよ。そしたら、打ち合わせをKBCでしよったら、ニュースが入ってきて、「えー!」ってなって。電話しても繋がらんっていう状況でさ。明日は仙台からブルーインパルスも来て空飛ぶとかさ、いろんなインプットのお祭りやったのが全部流れた。その大震災で。 シーナ:台本にはここの駅でどの人達が演奏してるとかいろいろね。
二位:すごいイベントだったんですよね。
シーナ:私達はスタジオも博多駅にも行って、あっちこっちの駅と繋いで朝6時に。だから今日は早く寝ないとねって感じで行っとったんよ。そう。すごかったんよ。それが全部飛んでしまってね。
二位:でも、あれじゃないですか、現場に居ないほうがよっぽど大変な事になってるんじゃないかって思ったんじゃないですか?
鮎川:もう、びっくりした。いきなりテレビつけたら「天皇陛下は大丈夫です」ってアナウンサーが言うたけ。なに? 地震がきて天皇陛下が大丈夫って。そんなね言うたら、これは半端じゃないなと思って。
二位:僕らは、大丈夫な東京にいましたけど。福岡にいて仙台の映像を見たら、東京もヤバいんじゃないかって想像しちゃいますよね。
シーナ:もうびっくりした。
鮎川:名取とか津波の映像がバンバン入ってきてさ。うわーと思って。ただすぐ子供達が電話は駄目やったけどEメールでね入れてくれたけん。無事なのが分かって確認できて。
シーナ:だから、子供らは何か二言目には、地震にあってないから、お父さんとお母さんはそんな事言えるって。
二位:責められるんですか?
シーナ:そう。けどね、電話繋がらん時は私はもう。
二位:そりゃ心配ですもんね。
シーナ:それで次の日の朝、番組が終わったらすぐ東京の飛行機をおさえてるから、すぐそれに乗って帰ったんよ。そしたら「何で帰ってきたのよ!?」って。 「無理やり帰ってこなくても良かったのに、福岡に居れば良かったのに」って言われさ、帰ってきてどうするのって。いや、心配だから帰ってきたんよって。
【YMOとの出会い~デビューはどんなんだったんですか?】
鮎川:YMOの出会いはね、まずはサンハウスの時、サディスティック・ミカ・バンドと何回かコンサートしとったんよ。長崎、福岡とか。で、ユキヒロさん※がドラムやったし。
※高橋幸宏(サディスティック・ミカ・バンド~YMO)
二位:もうサンハウスの時点で交流はあったんですね。
鮎川:いや、交流まではいかんけど、 シーナ&ロケッツを作って最初のステージがエルビス・コステロのジャパンツアーの、名目上は対バンやったけどね。僕達はそんな自惚れたことは思ってないけど。看板的には対バンって書いてくれて。大阪、福岡とやって東京に行って、東京の初日に演奏しよったら、三列目くらいに久保田麻琴とユキヒロとサンディーがおるのが見えてさ。やりにくいなとか思いよったんよ。で、ワーって冷やかされるんよ。
シーナ:ノってくれてたとよ~。
鮎川:うん。応援してくれて。それで終わってから、お茶しようってことになって。
シーナ:喫茶店で待ってるから~って言われた。
鮎川:そういう再会があって。それでユキヒロさんが、細野さんに面白いバンドがいたよって情報を言っていて。
シーナ:知ってる~とかの会話をいつも言うのよ。
鮎川:それで細野さんが「それは会ってみたいね」って言ってくれて。細野さんも勉強家でね。学者というか教授というか学長やけん。サンハウスももちろん知っとって。日本のいろんなバンドを知っとるわけよ。センチメンタルシティロマンスとかも。で、声を掛けてくれてゲストを頼まれた。もういきなり。オーディションも無しで。
二位:え!いきなりですか? 直で言われたんですか?
鮎川:うん、直で。ピットインでね。
二位:六本木のピットイン。
鮎川:YMOのセカンドステージやね。一回目は紀伊国屋ホールでデビューしてお披露目コンサートがあって、その次が六本木のピットインである時に、ゲストで入ってって頼まれて。ユキヒロさんがロケッツを気に入ってくれて、細野さんは聴いてもないのに信用してくれて。
シーナ:その時はレコーディング中だったのよ。「#1」のね。
鮎川:新井田くんが叩いた「#1」のレコーディング中ね。12月だね。
シーナ:そう。もうほぼ出来てる頃かね。
二位:展開早いですよね。
鮎川:ものすごく早かった。
シーナ:出来たらもうアルファレコードに移るみたいな。
鮎川:で、YMOに出会ったら細野さんがアルファレコードでレコード作らないかって? 進言してくれて。そしたらアルファの社内にそれが行き渡って。
シーナ:みんなね、アルファに来ればいいって。
鮎川:その日から名刺を沢山貰ったね。
シーナ:それで是非行きたいって。
鮎川:「#1」を仕上げたらアルファに入りたいなと思ってたら。そのレコーディング中に、ちょっと困ったことがあって、「#1」が出るか出ないの瀬戸際になったんよ。制作費は誰が持つみたいな。水面下の話がね。その名刺を頼りにアルファの田原さんっていうボスに電話してさ。そん時に、アルファに来てもらう引き換えに、残りの面倒な事は僕らが全部やるから、もう安心してアルファで次のレコード作ってよと。で、「#1」はちゃんと出すように話をつけてやるからと。そういう縁で。
二位:そんなことがあったんですね。しかしそのアルファで出した「真空パック」がまたかつてないエポックメイキングな作品というか、ロックンロールとテクノチックな凄い融合でしたよね。
鮎川:うん。凄かったと思う。
シーナ:そんな感じしたもん。レコーディングしてる時から。もう、よくどういう曲を演ろうっていう話をしたの。私はこういうのが好き、ポップス大好きって。
二位:逆に違和感は無かったんですか?
鮎川:全然ない。
シーナ:すごく楽しかった。プランを話すので楽しくて。
二位:一番すばらしいですね。
シーナ:うん、もう膨らむばっかりで。細野さんはもう喋ること全てが「いいね~、いいね~、あっわかる、いいね~、いいね~」って言ってくれるのがすごく楽しい時間だった。
二位:あのジャケットも衝撃的で。
鮎川:ジャケットもね、細野さんと何回も会った中で、彼がペンを持ってメモして、じゃあレコードはこう作ろう、何曲入れようかとか書いて。デザインは羽良多平吉さんに頼もうかな、スタイリストはユキヒロかなとか書いていくんよ。
二位:へえ…。
鮎川:プロデュースはそうやってまず始めに形を作るんだと思うたね。サンハウスは録りながら作っていく。そういう先に何か形を作るってものじゃなくて、1曲ずつレコーディングしてから、12曲溜まればアルバムやねって感覚。いい演奏を録って、1曲仕上げて、出来たら次の曲やって。それでいい曲が溜まったけんLPっちゅうね。
二位:じゃあ、サンハウスの時は、まとめてガッと録るんじゃなくて。
鮎川:うん。まあワーっと録るけれど、極端に言うと、出来たのを聴いてからアルバムのタイトルは何にしようかとかね。先にコンセプトが有るか無いかやけど。ああ、でもタイトルは、「真空パック」はシーナの一声で決まったんやけど。
シーナ:「チャンネルグー」もそうね。「ピンナップ・ベイビー・ブルース」は糸井重里の詩の中からもらってアルバムタイトルにしたね。
鮎川:俺たちがレコード作るってことは、消えて終わる最後の瞬間まで自分達のものと思っとっけ。今まで作ったレコード全部、ジャケットの質感も、匂いも、始まった瞬間の1曲目の感じやら、1曲目が終わって2曲目が始まる時の空気とか、全部責任持って作るようにしとった。それが楽しくてレコード作りしよったもんね。
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二位:僕、シナロケが凄いなと思うのは、絶対的にバンドのイメージ、イマジネーションが凄く全面的に出てきているんですけど、実はいろんな人が携わっているじゃないですか。それでみんなが楽しそうに見えるんですよね。多岐にわたるジャンルの人がバンドに参加してて、みんな楽しそうなのはなかなか無いなって思いまして。
鮎川:特に「真空パック」を作った時は、細野さん達もいろんな事を試してきよるけんね。ボーカルが全面のロックンロール4ピースバンドやし、それとドッキングしたYMOもまだコンピューターを手で入力する時代やったし。
二位:プロデューサー側も実験の時ってことですかね。
シーナ:そうそうそう。まだそういう作り込みはインストゥルメンタルしかなかったと思う。
鮎川:ユー・メイ・ドリームは、僕にやらせてって細野さんが。ロックンロールサウンドのスタジオライブやなくて、「この曲は作り込もうよ」って言って。そしたらさ、ボーカル入れる前にシーナが「もうこれで素晴らしい音が出来上がってるけ、ボーカルはいらん!」って言ったんよ。
シーナ:「歌は無くてよかろ」って言ったら、細野さんが、「あ~???」っていう感じになって。(笑)
二位:ひっくり返っちゃたんだ。
シーナ:なんという事を~って。
鮎川:シーナがこのままで美しいって言って、「ボーカル無しでいいんじゃないの?細野さん」って。そしたらバタンってなったっていう(笑)。
二位:いやいやいや、そしたら僕らあの名曲歌えないじゃないですか~(笑)。1コ1コ思い出があって素晴らしいんですけど。
鮎川:音羽にアルファの社長の村井邦彦さんのプライベートスタジオがあってね。アルファのバンドはそこでいろんなプリプロダクションっていうか、試したりね。僕らも浮かんできたものをバンバン演奏して。それを細野さんがミキサールームでキャッチして、えらい作ったね。
シーナ:そうだね~。
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二位:いや~話戻りますが、そのYMOとのピットインのライブは観たいですね。映像は残ってないんですかね。
シーナ:ビデオは無いね。
鮎川:あの、YouTubeで音だけは最近流れて来たね。
二位:そうなんですか?
鮎川:うん。嬉しかった。デイトリッパーとサティスファクションとカモンの3曲を俺が歌っとたんよ。それ全部YouTubeで聴ける。
二位:凄い時代~。僕、高校生の時に、サンハウスのレコードが欲しくても全然何処にも無いから、それこそ久留米とかに探しに行って、やっと見つけたと思ったら3万6千円っていう値がついていて。とても高校生には買えなくて。で、ダビングのダビングで貰ったら片チャンしか入ってなくて。後からちゃんとレコード買って聴いたらギターがもう1本増えているんですよ。片方のチャンネルのギター高校時代ずっと聞けてなかった。そういう思い出がありましたね~。そんな時代を経てYouTubeで貴重なのを観れるんですね…。
鮎川:YMOに俺がゲストでギターで、神戸、福岡と武道館と途中やったんよ。80年のツアー。その頃は子供達も楽屋に来て、YMOのデリケートな機材やドラムをバンバン叩いたりして。
二位:大変だっ!
鮎川:クリストーマスが来とってね。その時はセックスピストルズとかプロデュースしたあとやろ。
二位:ええっつ!! 直後ですよね。実際ピストルズの録音は尋常じゃないですもんね。
鮎川:元々、ビートルズのホワイトアルバムのプロデューサーやもんね。
シーナ:プリテンダーズもやったし。
鮎川:クリストーマスがお客さんの中にいるんで、メンバー意外とみんな緊張してるなって感じがあったんよ。
二位:分かるような、でも話が雲の上過ぎて… シナロケもですけど、僕はクリスの音が大好きで…。
皆:(笑)
二位:ちょっと立ち入った話になりますけど、ロックが10年ほど前に比べたらCDが売れないとか、若いバンドがなかなか食っていけないという状況がある中で、ずっと続けてるというか、ありきたりな言葉になってしまうんですけど、秘訣というかそういう人達に何があったら一番いいかねっていうのありますかね。バンドマンたるやみたいな。
鮎川:こればっかりは、自分達は沢山の人に助けられてやっとるからね。俺たちだけで生き延びてきたわけじゃなくて、いろんなロックの奇跡もあったし、ロックの神様が降りてきた時もあったし、仲間もおったり、出会いもあったりね。僕らも凄く幸運やと思うとるよ。今日もまだバンドが演れるってことはね。
二位:やっぱり出会いみたいなところ? ですかね?
鮎川:まず、やるかやらんかは自分で決めるっていう勝手な世界やし、人に決められたり、任命書みたいなものもらってやるわけでもないし。自分たちが音楽が好き、ココにおるのが何より最高だっていう喜びを感じて、この場所に居たい。風が吹いてもしがみついて、ロックが大好きやっていうのがまず最初やと思うんよ。それとにわかでロックが好きになったわけやなくて、筋金入りやて自分が自信もって言えるくらい。シーナにしても小学校のころからヘッドフォンを何回も壊してさ。昔のヘッドフォンはボーリューム上げ過ぎるとよく壊れたんよ。ポンッて。
シーナ:そうそう。プツンてね。それくらい上げて聴きよったんよ。
二位:すぐ飛んじゃうんですね。
シーナ:一番壊れたのは、レッドツェッペリンで。何回もやったね~。
鮎川:アニマルズもローリングストーンズもビートルズもね。
シーナ:もう、アートロック、ニューロックからヘビーメタルとか、とにかくずっとロックを聴いているから。
鮎川:僕達は何ちゅうか、聴く側の愛好者としても本当に身を捧げてるくらいロックが好きなんよ。それが作り手に回った時の喜びちゅうたら、それは本当に凄いもんよ。
二位:なるほど…。
鮎川 :やけん、長くなったけど、バンドやるっちゅうことは、自分で決める事なんよね。そこにしがみついてでも居るってことやし、その代わり捧げることでもあると思うんよね。
二位:なるほど。貰うばかりではなく…。
鮎川:マニュアル通りにやればこうなるっていう世界でもないやろしさ。レコードが出ても2ヶ月目には旧譜になるような目まぐるしい世界でくさ。音楽が好きなのか、そこに居たいのかを自分で問う事やと思うよね。それでも演やれない人達もいっぱい知ってるけど。素晴らしいのに、どうして続けれんのって。自分らとしては今日もギターが弾けてありがたいよね。
二位:そこが原動力ってことですね。
鮎川:次のコンサートを5月1、2日にでQueでやれるというのは感謝せずにはおられんよね。バンドなんて、辞める辞めない、お前やるよなって、約束したやろなんて通用しない世界やけん。気まぐれな世界ではある。何も約束しとらんし、誓いを立てたわけでもないしね。いいんじゃない、バンドって楽しいやんって。一番好きなことやって、ギャラもらったぜ、分けようぜって。久留米時代にもう味わったんよ。ギャラをもらう喜びを。こんなに貰ったぜって。
シーナ:楽しいよね。
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二位:そう言えば、鮎川さんはパソコンも早かったですよね?
鮎川:今となっては早かったけど、それより何年も前にりぼんの事務所でスタッフがやってるのを横目で見とったからね。
二位:とはいえ、世の中に普及してきた頃には、いち早く使ってましたよね。
鮎川:Windows95が出るちょっと前やったかな。Windows3.1ってのが初めてやった。その頃グレイトフルデッドのジェリー・ガルシアが亡くなったニュースと同時に、ボブ・ディランやらカルロス・サンタナの皆が、コメントを寄せているのをインターネットでは直ぐに見れるっていうことで、もうぶっ飛んだ世界だった。
二位:なるほどそれ読みたさに、入っていきますよね。
鮎川:それまではさ、1ヶ月後の雑誌を待ってなきゃ何んもわからんかったのに、インターネットは昨日起こったことが、今日知れる。
二位:しかし自らホームページを立ち上げた人ってのは、あのタイミングではなかなかいないと思いますよ。
鮎川:Yahooの検索でさ、シーナ&ロケッツを入れたら答えがゼロだったんよ。
二位:検索に引っかかからなかったんですか。
シーナ:誰も、どのバンドもまだ引っかからん時代よ。
鮎川:けどさ、何か悔しいやない。とりあえず、ウェブ上でシーナ&ロケッツってカタカナと英語で引っかかるためにはホームページ作るしかなくてね。
シーナ:日本のあらゆるバンドは引っかからなかったんよ。
二位:まだパソコンあってもネットは難しかったんじゃないですか? 写真加工とかデザインで使うくらい? だからシナロケはホームページも早かったなーって。
鮎川:うん、まだネットも電話回線やったもんね。ピーヒャラピーっちゅうてね。
二位:そうでしたね。時間かかってましたね(笑)。
【SHEENA & THE ROKKETS の始まり】
二位:少し始まりの話を聞いていいですか?
鮎川: 1枚作ろうってシーナの一声がスタートなんよ。シーナ&ロケッツは。
二位:えっと、シーナさんがバンドやろうって。
シーナ:バンドというか、私が歌った声でレコードを1枚作りたいってね。
鮎川:うん。一言では説明出来ないけど、サンハウスっていうバンドをやりよって、78年に最後のライブをやって解散する事にして。そして初めて俺は何をしたいんやろうなって考えよった時に、自分はやっぱ音楽ば続けたいと思うて、なり振りかまわず、もう最後のチャンスと思うて。30歳にもなろうとしよったし。ジョンレノンが言うた、30過ぎの奴らは信用しないって合言葉があったんよ。エリック・プラクトンが金の為に音楽をするんじゃねえっていう言葉と、ジョンレノンの言葉がロック好きな者達の中では定説になっとって。その30歳にあと二ヶ月くらいで近ずく頃、シーナと結婚して双子の子供が産まれてて。本当に甲斐性のない生活をしよったんよ。居候でね。で、仕事せんとねってなったけど、シーナの親父が「あんた達のサンハウスは素晴らしかった」って言ってくれて褒めてくれたと。「特にあんたは凄い」って。やけど「福岡で田舎天狗になっとったらつまらんし、うちの娘は幸せにならんばい」って言うて、「あんた最後に勝負してきなさい」と。
二位:凄い話ですね!しかもその当時!!
鮎川:よかって言ってくれた。あんたがやれるのかどうかは東京でならハッキリするし、九州におったらそりゃやれるわいって。仲間もおるしね、家もあるし。ファンもちーっと付いとるのも知っとるし。でも福岡じゃ駄目やろ。東京で勝負してこいて。しかも「皆、ぬる~い風呂に入って、薪の火くべる奴が誰もおらんやないか」って言うたんよ。
二位:へえええ~!!
鮎川:「誰かが風邪引く覚悟で出て、薪をくべにいかんと、全員そのままぬるい風呂に入ったままで風邪を引いて終わりばい」って。
二位:凄い例えですね。シーナさんのお父さん凄いですね~。
鮎川:シーナの親父も、ロックな親父で、ロックが好きでくさ。俺達に負けんようにこっそり新しいレコード聴いたりしよるんよ。
二位:かっこいいですね~。
鮎川:その親父の励ましで、東京に行った時にもバンドって思うたけど、まずバンドやなくて俺が1人やったからギター弾いて金稼いでって思ったんよ。作曲の仕事もしたり、編曲の仕事もしてって、なんでも頼まれたものはやるぞって覚悟で。渡りに舟みたいな感じやったけど、サンハウスのマネージャーやった柏木省三が東京で一年前からプロダクションにおって。チャック・ベリーの「カモン」を吹き込もうかってレコーディングせんか、パンクロックで行こうぜって。パンクはもちろん好きやったし、彼は何かアイディアがあって吹き込もうて言うてね。それで東京来て、作曲の仕事とかいろいろあって、そしたらシーナが1週間たって、「お前もウジウジしとるくらいなら、マコちゃんのところに行ってきや!」って。
二位:また親父さんが。
鮎川:うん。それでシーナと二人でいろんな出版社に俺のレコーディングしたカセットを売り込んだり、人伝てに会ったりしよった時に、赤坂御苑から渋谷までタクシーで乗って帰る時にシーナが言うたんよ。「私に歌わせんね。私のレコードを作ったらいいんじゃない」って。
二位:へええ。それまでは一緒に音は出していなかったんですか?
鮎川:音は出しよったよ。スタジオで曲を作る時はいつも一緒やったし。
シーナ:ねえ、家で作ったりね。
鮎川:ただ、一緒にやろうとしよった訳やないし。
シーナ:全然思ってもいなかったね。
鮎川:ただ、新井田くんや安倍くんとかとレコーディングをやったり、渋谷ジァンジァン(※1969~2000年まで営業した公園通りの小劇場)で東京乾電池がデビューしてね。デビューの時、楽団を付けよって、そういう仕事を新井田くんとしたことがあったんよ。そういう中で、シーナがレコードを作りたいって言うた時に、それは今まで自分が一番大事にしてきたことやしと思うて。それで、九州帰って2回目の東京の時に、ずうっと新幹線の中でそれまで溜めとった曲の構想を…
シーナ:そう、通路に貼ってさ。
鮎川:リズム取りながら歌ったりして。
シーナ:ずうっと歌ってたね。あの頃は東京~博多間は7時間くらいはかかりよったもんね。
鮎川:それで柏木が手伝ってくれて、「鮎川誠&ミラクルメン」って名前をつけて。
二位:ミラクルメン?
シーナ:そうそう。
鮎川:ミラクルメン。新宿ロフトで8月にブッキングしたって柏木が言うて。スケジュールがぴあに載ってるんよ。「へ~、俺はミラクルメンけ~」って。
二位:はは…(笑)
鮎川:いや、これは自分達で名前はつけたほうがよかねってことになって、~アンド~みたいなちょっとオーセンティックな名前はいいねってなって、バンドはロケッツにしようと、ロックとシーナの本名の悦子を合体して、ロックエツコ…ロクエツコ…ロケッツまでは頭に浮かんだ。そんでロケッツっていうのは古今東西、アメリカンフットボールでもヒューストンロケッツとかあるし。もうひとつはラモーンズの曲の「シーナイズパンクロッカー」ね。それから、うちの婆ちゃんが鮎川シナっていう本名でさ。
二位:あ~!
鮎川:それとEddie & Sheenaっていうウェンカウンティのエレクトリック・チェアーズのニューヨークパンクの曲もあったし。シーナがやたら出てくるけん。じゃあもうシーナもらおうぜって。
シーナ:今からはジャック&べティーじゃないよって。
鮎川:Eddie & Sheena。パンクの代表とエディ・コクランの50年代のロックンロールのロックの世界の賛歌だったんよ。
二位:それでバンド名が決まったんですね。
鮎川:でも、名前をつけた時は、鮎川誠&ミラクルメンで1ステージやって。それが8月で、その後、そのメンバーでレコーディングしたね。「涙のハイウェイ」。シーナのボーカルでね。
二位:シーナさんはそれまでは別のバンドで歌ってたってことはないんですよね。
シーナ:歌ってないよ、全然。
鮎川:シーナはゴーゴーガールもしたし、自分でチケット買って来るような本当にロックの応援者やったよ。サンハウスのチケット買うてくれるし。
シーナ:うんうん。
二位:でも、誰よりも存在感あったんじゃないですか?
シーナ:それで買うし売るし。レコードも客に買わせたし、有線リクエストしてって。
二位:ある種…スタッフみたいなことを?
鮎川:夢本舗でね、最初にサンハウスは「有頂天」ちゅうLPを出す前に、自主制作でレコード作ってるんよ。
シーナ:そうそう。私がビニールに入れたりして。ちょっとでもね色んな人に手にとってもらえればっていう気持ちでね。
二位:本能的にやってしまったんですかね?
シーナ:そう。もう、なんでもするよって感じで。
二位:シーナさんは最初から歌う人みたいな感じで思ってました。
シーナ:いやぁ、歌わなくとも全然ロックだもの、私。踊り抜群だし。
鮎川:サンハウスの曲を作るとき、いつも一緒におるけんね。
シーナ:またこれ情けない歌やねとか言ってね(笑)。 お金の無い歌が多いわねえって(笑)。
鮎川:デモテープ作ってる時からも一緒にいたし、共有のアイデンティティがすごいあるんよ。ジュークレコードの松本とか、柴山さん、奈良とかのいろんな仲間がもう最高のブルースを聴きたいのと、最新のロックを聴きたいのと欲張り仲間がいっぱいおった。
二位:なるほど。そういえばジュークレコードのような存在感のお店が、あんまり東京にはなかったんじゃないかなと思ってるんですけど。
シーナ:そうね。バンドマンが集まったりするようなね。
二位:「これがカッコいい」、「あれを聴いたほうがいい」っていうようなオヤジさんがいて。
シーナ:そうそう「あんた~それ知らんと~?」とか言って。
二位:その環境が素晴らしいなって思いますね。
シーナ:色んな人が出たり入ったりするような場所ね。
二位:僕らが噂を嗅ぎつけて、でも後追いで、博多に行ったら色んな物があるって事に夢を描いてたのが、後からその現実を知っても間違いじゃなかったし。おそらく東京にもなかったようなことが、福岡にはごそっと起きてたような気がするんです。
シーナ:そうだよね。私達も取材とかで、あのころ本当に自慢したもん。博多ってこういう所よ。もっとカッコいいバンド沢山いるよって。モッズやルースターズとか超いいし、自慢したもんね。いっぱい紹介したし。
鮎川:ロッカーズもね。
二位: まさにぼくの学生の頃の幻想の話です。
二位:それでは最後にCLUB Queへ向かいましょう。今日はPRIVATESやHARISSがやってますんで。
鮎川:そうね。いいね。あれ、タバコ忘れたやろか?
シーナ:持ってきてるよ。
鮎川:今もう、歩きながら吸えんよね。
二位:そうですね。海外なんてもっと厳しいんじゃないですか?
シーナ:もうずっと前から。レストランとかも全然だめで、タバコ吸ってる人も少なくなったよね。それに900円ぐらいするし。
二位:向こうだとそんななんですか?
シーナ:だいぶ前に友達が言ってた。ロンドンでさあ、500円は高いよねって言ったら、ニューヨークは900円って。
二位:日本の410円は安い方ですか。
シーナ:安いんよ。400円くらいは。
二位:最初160円とか130円でしたもんね。
シーナ:そうそう150円とか。
鮎川:あ~壁の絵も撮りたいね。(井の頭高架線、ガード下の壁画)
シーナ:壁もうないの?
二位:工事で隠れてますねえ。残念。ここに絵が描かれたきっかけが、僕この屋根裏で働いてて。ここの上にスタジオあってレコーディングしてたんですよ。
シーナ:あそこで曲作ったことあるよ。
二位:本当ですか!? それ凄い話…。 で、ですね休憩っていって窓から外を見たら、線路の脇から火吹いたんですよ…どかーんって! その時のバンドマンのスクーターが放火されて。
鮎川:わお!(笑)
二位:そのあと消防署に講習受けに行った時に、パンフレットにその放火の事件として載ってたんですけど、聞いたらその放火がきっかけでガード下が暗かったから絵を描いたらしいですよ。
シーナ:へぇ~、いろいろあるねぇ。
二位:この土手も無くなるんですよね。
鮎川:あ~、かろうじてここは少し残ってるけど。ここで撮ったことあるよ、土手をバックに、昔ね。覚えてる?
シーナ:覚えとるよ。
二位:もうすぐ小田急が地下になって、道路ができるのは後々になりそうですけど、道路が出来たらすっかり変わるでしょうね。
シーナ:どこに道ができるの?
二位:茶沢通りが幅拡げられて、踏切がなくなった交番のところから左のところを潰して駅、反対側は代々木上原に抜けるんですって。代々木には行きやすくなるんですけどね。
鮎川:ああ、ここで写真撮りたいね。
シーナ:今リハやってるの?
二位:リハが終わりそうなくらいの時間じゃないですか? 行きましょうか?
鮎川:お疲れ様~。
滝島(THE PRIVATESマネージャー):今ちょうどリハーサルが終わったところです。
二位:HARISSのリハこれから?
鮎川:Facebookで見たよ、あの時ねもう一声かけてくれれば。
アキラ(HARISS Vo.):いやいや、いっぱいいっぱいで…。
セイジ(HARISS Gu.):何だろうこの緊張感、何ですか(笑)
高橋(HARISS Dr.):ドッキリ?
二位:そう(笑)
延原(THE PRIVATES):お疲れ様です。
二位:5月1日2日に、35周年結成と65歳で100年祭りです。
延原:あ~、ハッピーバースデイライブね。
鮎川:65と35を足すだけなんよ。
延原:なるほど(笑)。1日は顔出せるかもですよ。
二位:THE PRIVATESは今年の暮れで30年なんですよ。
シーナ:ほんとう。もう長いね。
鮎川:ほんとね。これ、よかギターやね。どれ。
※ひたすらビンテージギター談義が繰り広げられる…
二位:秋は何か大きいことやるんですか?
鮎川:まだ今のところ言えんけど…。秋にね。
二位:やたら楽しみです。僕らも何か絡めたらいいな。今日は本当に長丁場すいませんでした。
鮎川:いやあ、どうもありがとうございました。
二位:ほんとうに有難うございました。
鮎川:5月1日2日、よろしくお願いしますね。
シーナ:お願いします。
鮎川:お疲れ様。
==========================================
シナロケ インタビュー後記
何度か話しをさせてもらった中でも、今回はかなり長い時間ご一緒させていただきました。
目まぐるしく変っていく下北沢を背景に2人の写真を撮らせてもらいつつ、時間を割いていただいたお二人に感謝です。貴重な体験を有難うございます!
いつも思うのは、会話中に人の名前や、バンド名、曲名までがどんどん出てくる。そんな人はそうざらにいないと思う。
記憶力が良いといえばそれまでだけど、ロックが好き、加えて人が好きというところからの豊富な知識という印象を強く受けるのです。
一連の話しの中に出てくる人々やロックの話はそのまま世界規模のロック辞典、歴史本に出来そうな話になるし、
鮎川さんで言えば、ロケッツの前のバンド、サンハウスが1970年に活動開始したから40年以上ロックを鳴らし続けている人なわけですね。
それでいて写真を見てもらえば分かるとおり、まったく枯れていない。というか今回下北を巡りながら思ったのは、どこで撮ってもロンドン。そこにとんかつやの看板があっても瞬時にロックの情景に変えてしまう二人なんです。
それに、わけ隔てなく無名だろうが若僧だろうがロックンロール好きであれば、優しく接してくれる感覚…。
ベテランというか誰もが知ってるスターにしてこの気さくさは、僕らにどれだけの夢や勇気や希望を与えてもらえるか。
ライブに関しては、ジャンルを超えた日本のルーツといってもいいくらいのロックであり、最前のポップミュージックショウでもあるシーナ&ロケッツ。
秋には大規模のイベントも構想中というが、その前のCLUB Que奇跡のワンマン2デイズ!
2013年5月1-2日 鮎川誠65歳の誕生日にしてバンド結成35周年。
ローリングストーンズ来日規模で貴重だと思うのは俺だけじゃないはず!
とにかく多くの人に、もしかしたらまだ観たことないという人がいたら、そんな人にも是非観て欲しい2デイズ。
意味は後付けでもいいじゃないですか。シーナ&ロケッツが無かったら、CLUB Queは無かったかもしれないし、あったとしても全く違うスタンスになっていたでしょう。いえば彼らの傘で育ったロックシーン。重要ですよ! [CLUB Que 二位徳裕]
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